2日目の会津視察は、まず会津若松市内にある鶴ヶ城へ。天守閣は戊辰戦争で賊軍となった会津藩に対し、明治7年に旧陸軍から取り壊しの命令があり、その姿を無くしましたが、昭和40年に再建され現在に至っています。
この城郭内には、有名な茶室「麟閣」があります。これは、千利休が秀吉の怒りに触れ死を命じられた際、茶道が途絶えることを心配した会津の当時の領主、蒲生氏郷が利休の子どもの「少庵」をかくまい、当時建てられた茶室。その後、秀吉に千家再興を願い出て認められ、以降、少庵の子ども「宗旦」に受け継がれて後、武者小路千家、表千家、裏千家の三千家が興され現代に至っています。
この茶室「麟閣」は戊申戦争後は会津の茶人宅に移され保管されていたものを平成2年に市政90年を記念して移設されたそうです。
そんな日本の茶道の分かれ目となった由緒ある茶室を眺めながらの抹茶(500円)は体に染みいる味覚でした。


そして2日目のメインである飯盛山へ。ここはあまりに有名な会津藩の青少年部隊「白虎隊」の自決の地であり、民間の有志が作った記念館と実際のお墓があります。
白虎隊について簡単に引用説明すると…
大政奉還の後、会津が幕府方の大きな勢力を持つ藩だから、どうしても攻めほろぼさなければならないということから、会津藩をはじめ、悲惨な戦を避けようとする東北各藩の連合の願いも聞き入れられず、やがて新政府軍は大軍を進攻。
一方、会津藩では、以前から天下の形勢によって戦争がおこることを考えており、軍制の改革によりいままでの古いやり方を新しいフランス式のものに。それは、あくまで戦力に重きをおいて、次のように年齢によって組織をあらためたばかりでなく、武器や弾薬の買い入れにも力を入れた。
1、玄武隊(げんぶたい):50歳以上
1、青龍隊(せいりゅうたい):49歳以下、36歳まで
1、朱雀隊(すざくたい):35歳以下、18歳まで
1、白虎隊(びゃっこたい):17歳以下15歳まで※のちに16歳まで)
新政府軍の侵攻により、白虎隊も出陣、当時総数は340名ほどだったようですが、敗走の際に一部がこの飯盛山に退却し、そこで城内の天守閣が燃えているのを見て、もはやこれまでと若き19名が忠義をつくして自決の道を歩んだのでした。しかし、彼らの見た火の手は、実は天守閣ではなく、周りの屋敷が燃えているだけで、落城してはいなかったとのこと。この情報の無さから招いた悲劇が今日まで語り継がれてきたわけです。
さてさて、会津での最後の食は、地元老舗の田楽屋へ。田楽の歴史は戦国時代、持参の食料を串にさして食べたことによるそうで、訪れたお秀茶屋は、会津藩士専用の処刑場が近くにあり、この店で会津藩の慈悲により最後の田楽を罪人に食べさせたという歴史を持つ店!餅、生揚げ、里芋、身欠きニシンの味噌付炭火焼きは絶品でした。


同志たちとの東北・会津紀行は日本の幕末史を会津側から再考察するとともに、会津の昔ながらの日本の田舎文化を存分に堪能させて頂きました!小野塾生に感謝!